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人的資本経営とは?注目される背景から実践ステップ・情報開示まで徹底解説

人的資本経営とは?

人的資本経営とは、経済産業省が提唱する「人材を『資本』として捉え、その価値を最大限に引き出すことで、中長期的な企業価値向上につなげる経営のあり方」です。ESG投資の拡大や情報開示の義務化を背景に、2026年現在、日本企業にとって人的資本経営の推進は経営課題の最上位に位置づけられています。

しかし、人的資本経営とはそもそも何を意味するのか、従来の人事管理とはどう違うのか、情報開示の義務化にどう対応すべきか、具体的に何から始めればよいのか、といった疑問を持つ方も多いのではないでしょうか。

本記事では、人的資本経営の定義や背景から、人材版伊藤レポートの要点、メリット・課題、2026年最新の情報開示ルール、そして実践ステップまで、JAPAN AIが網羅的に解説します。

目次

人的資本経営とは

人的資本経営とは、人材を「資本」として捉え、その価値を最大限に引き出すことで、中長期的な企業価値向上につなげる経営のあり方です。

従来の経営では、人材にかかる費用を「コスト」として捉え、いかに効率的に管理するかが重視されてきました。

一方、人的資本経営では人材への支出を「投資」と位置づけ、教育研修やキャリア開発、健康経営などを通じて一人ひとりの能力や経験を高めることが、企業の競争力と持続的成長を左右すると考えます。経済産業省もこの考え方を政策の柱に据え、2020年以降「人材版伊藤レポート」や「人的資本可視化指針」を相次いで公表し、企業の取り組みを後押ししています。

人的資本経営の推進は、単なる人事部門の施策にとどまらず、経営戦略そのものと人材戦略を一体化させる全社的な変革を意味します。

出典:経済産業省「人的資本経営 ~人材の価値を最大限に引き出す~」

従来の経営との違い

人的資本経営と従来の経営の最大の違いは、人材を「コスト」として管理するか、「投資対象の資本」として価値を高めるかという根本的な視点にあります。

従来型の人的資源管理(HRM)は、人件費を抑制しながら限られた人材を効率よく配置・活用する考え方が中心でした。採用計画は欠員補充が主目的であり、教育研修も業務遂行に必要な最低限のスキル付与にとどまるケースが少なくありません。評価制度も年功序列や勤続年数に基づく仕組みが多く、個々の能力開発や成長意欲を引き出す設計にはなりにくい構造です。

人的資本経営では、人材一人ひとりが持つ知識やスキル、経験を「資本」と見なし、適切な投資によってその価値を増大させることを目指します。経営戦略の実現に必要な人材像を明確にし、採用・育成・配置・評価のすべてを戦略と連動させる点が特徴です。

比較項目従来の経営(人的資源管理)人的資本経営
人材の位置づけコスト(費用)資本(投資対象)
人材への支出削減すべき経費将来のリターンを生む投資
人事戦略の起点業務効率化・欠員補充経営戦略との連動
育成の考え方必要最低限のスキル付与中長期的な能力開発・リスキリング
評価基準年功序列・勤続年数成果・スキル・行動

この視点の転換こそが、人的資本経営の出発点であり、企業が持続的な成長を実現するための重要なポイントです。

人的資本と人的資源の違い

「人的資本」と「人的資源」は似た言葉ですが、その本質的な意味は大きく異なります。人的資本は投資によって価値が増大する資産であり、人的資源は消費・消耗される存在として扱われます。

「資本」とは、元来、投下することで利益を生み出し、再投資によってさらに価値が増大する性質を持つ概念です。人的資本の考え方では、従業員の知識やスキル、経験は教育投資や実務経験を通じて蓄積・向上し、企業の生産性や創造性を高める源泉として機能します。投資すればするほど価値が高まるという点で、設備投資や研究開発投資と同じ論理が当てはまります。

一方で、「資源」は採掘・消費すれば減少するものであり、人的資源という考え方では、人材を「使う」ことに主眼が置かれます。限りある資源をいかに効率よく配分するかが重要視され、人材の成長や価値向上への投資は二次的な位置づけにとどまりがちです。

人的資本経営を正しく実践するためには、この語義の違いを組織全体で共有し、人材を「消費する対象」ではなく「育てる対象」として捉え直すことが不可欠です。

人的資本経営が注目される背景

人的資本経営が日本企業で急速に広まった背景には、ESG投資の拡大や働き方の多様化、技術革新の加速、そして情報開示の制度化という4つの社会的・経済的な構造変化があります。

いずれも個別に発生した変化ではなく、相互に連動しながら「人材こそが企業価値の源泉である」という認識を強めています。

  • ESG投資の拡大
  • 人材・働き方の多様化
  • 技術革新とDX推進の必要性
  • 情報開示の義務化と世界的動向

ESG投資の拡大

ESG投資の世界的な拡大が、人的資本経営への注目を高める大きな理由の一つです。ESG投資とは、環境(Environment)・社会(Social)・ガバナンス(Governance)の3要素を投資判断に組み込む手法を指します。

このうち「社会」の要素には、従業員の処遇や人材育成、ダイバーシティ(多様性)への取り組みが含まれており、投資家が企業を評価する際の重要な判断基準として機能しています。人的資本への投資が不十分な企業は、中長期的な成長力に疑問符がつき、資金調達や株価にも影響が及ぶ構造が生まれています。

日本サステナブル投資フォーラム(JSIF)の調査によると、日本のサステナブル投資残高は2025年時点で約671.8兆円に達し、前年比7.4%増と拡大を続けています。総運用資産残高に占める割合も63.4%に上り、ESGの観点を無視した経営は投資家からの信頼を失うリスクを伴います。

企業がESG投資の潮流に対応するためには、人的資本への取り組みを経営戦略に組み込み、その成果をステークホルダーに対して可視化することが求められます。

出典:日本サステナブル投資フォーラム(JSIF)「サステナブル投資残高調査」

人材・働き方の多様化

少子高齢化による労働力人口の減少と、働き方の多様化が、人的資本経営の必要性を加速させています。

日本の生産年齢人口(15〜64歳)は1995年をピークに減少を続けており、2050年には5,275万人まで縮小すると推計されています。限られた人材を確保し、一人ひとりの生産性を最大化するためには、従来の画一的な雇用管理から脱却し、多様な人材が能力を発揮できる環境整備が欠かせません。

リモートワークや副業・兼業の普及、フリーランス人材の活用など、働き方の選択肢は急速に広がっています。こうした変化に対応するには、時間や場所にとらわれない柔軟な就業制度を整えるとともに、多様なバックグラウンドを持つ人材の知見を経営に活かす仕組みが必要です。

人材の量的確保が困難な時代だからこそ、一人ひとりの「資本価値」を高める人的資本経営の考え方が、企業の持続的成長を支える基盤として重要性を増しています。

出典:総務省「令和4年版 情報通信白書」

技術革新とDX推進の必要性

DX(デジタルトランスフォーメーション)の進展により、企業に求められるスキルが急速に変化していることも、人的資本経営が注目される背景の一つです。

生成AIやクラウドサービス、データ分析技術の発達によって、従来の業務プロセスが根本から変わりつつあります。

これに伴い、既存のスキルセットだけでは対応できない業務領域が拡大し、リスキリング(学び直し)や人材ポートフォリオの見直しが経営上の喫緊の課題です。単にデジタルツールを導入するだけでは不十分であり、それを使いこなし、新たな価値を創出できる人材を育成・確保する仕組みが不可欠です。

人的資本経営の枠組みでは、経営戦略が求めるスキルと現在の人材が持つスキルとのギャップを定量的に把握し、計画的にリスキリングや採用を進めることが重視されます。技術革新のスピードに組織が追従するためには、人材への継続的な投資を経営の中核に据える必要があります。

情報開示の義務化と世界的動向

国内外で人的資本情報の開示が制度化されていることも、企業が人的資本経営に取り組む直接的な契機です。

日本では2023年3月期決算から、有価証券報告書を提出する約4,000社に対して人的資本に関する情報開示が義務化されました。必須記載事項として、人材育成方針、社内環境整備方針に加え、女性管理職比率、男性育児休業取得率、男女間賃金格差の3指標が定められています。

国際的には、2018年にISO(国際標準化機構)が人的資本報告のガイドライン「ISO 30414」を策定し、11領域58指標の開示フレームワークを提示しました。2025年8月には改訂版(ISO 30414:2025)が発行され、指標数は69に拡充されるとともに、14指標が必須の要求事項として明確化されています。

また、EUでは「企業サステナビリティ報告指令(CSRD)」が2024年度から大規模上場企業を皮切りに段階的に適用され、従業員に関する情報を含むサステナビリティ情報の開示が義務づけられています。

ただし、2025年のオムニバス法案に基づくストップ・ザ・クロック指令により、旧NFRD対象外の大企業等への適用は2027年度へ、上場中小企業等への適用は2028年度へそれぞれ2年間延期されています。

こうした国内外の制度整備により、人的資本経営は「取り組むかどうか」を選ぶ段階から、「いかに実効性のある形で推進するか」を問われる段階へと移行しています。

出典:金融庁「企業内容等の開示に関する内閣府令等の改正」

人材版伊藤レポートからみる人的資本経営

人的資本経営を実践するうえで最も重要な指針が、経済産業省が公表した「人材版伊藤レポート」と、その発展版である「人材版伊藤レポート2.0」です。

「人材版伊藤レポート」は、一橋大学の伊藤邦雄教授を座長とする「持続的な企業価値の向上と人的資本に関する研究会」の報告書として2020年9月に公表されました。2022年5月には、内容をさらに深掘り・高度化した「人材版伊藤レポート2.0」が公表され、人的資本経営の実践指針として広く参照されています。

このレポートの核心は、人材戦略に求められる「3つの視点(3P)」と「5つの共通要素(5F)」というフレームワークです。経営戦略と人材戦略を連動させるための具体的な考え方と行動指針が体系的に示されており、企業が自社の取り組みを点検・改善する際の羅針盤として機能します。

出典:経済産業省「人的資本経営 ~人材の価値を最大限に引き出す~」

3つの視点(3P)

人材版伊藤レポートが示す「3つの視点(3P)」は、人的資本経営を実践するうえで企業が持つべき戦略的な思考の枠組みです。

1つ目の視点は「経営戦略と人材戦略の連動」です。経営ビジョンや中期経営計画を実現するために、どのような人材がどれだけ必要かを明確にし、人材戦略を経営戦略の一部として設計することを求めています。人事部門が独立して施策を考えるのではなく、経営層と一体となって戦略を策定する体制が重要です。

2つ目の視点は「As is-To beギャップの定量把握」です。目指すべき姿(To be)と現状(As is)の差を、スキルデータや人員構成、エンゲージメントスコアなどの定量指標で可視化し、課題を特定するプロセスを指します。感覚的な判断ではなく、データに基づいた現状分析が求められます。

3つ目の視点は「企業文化への定着」です。人的資本経営の考え方を一時的な施策で終わらせず、組織の価値観や行動規範として根づかせることが不可欠です。経営層のメッセージ発信や、評価制度への反映を通じて、全社的な文化として浸透させることが求められます。

3つの視点を統合的に実践することで、人的資本経営は形式的な取り組みから実効性のある経営変革へと昇華します。

5つの共通要素(5F)

「5つの共通要素(5F)」は、3つの視点を実現するために企業が取り組むべき具体的な人材戦略の構成要素です。

  • 動的な人材ポートフォリオ:経営戦略の変化に応じて、必要な人材の質と量を機動的に見直し、採用・育成・配置を最適化する考え方です。固定的な人員計画ではなく、事業環境の変化に合わせて柔軟に調整することが求められます
  • 知・経験のダイバーシティ&インクルージョン:性別や国籍だけでなく、専門知識や職務経験の多様性を確保し、異なる視点を経営に活かすことで、イノベーション創出の基盤を築きます
  • リスキル・学び直し:技術革新や事業転換に対応するため、従業員が新たなスキルを習得する機会を体系的に提供します。個人の成長と企業の戦略ニーズを連動させることが重要です
  • 従業員エンゲージメント:従業員が仕事に対して主体的に取り組み、組織の目標達成に貢献しようとする意欲の度合いを指します。定期的な測定と改善アクションが不可欠です
  • 時間や場所にとらわれない働き方:リモートワークやフレックスタイム制度など、多様な就業形態を整備し、従業員が最も生産性を発揮できる環境を提供します

これら5つの要素は独立して機能するものではなく、相互に連携させることで人的資本経営の実効性が高まります。

人的資本経営に取り組むメリット

人的資本経営を推進することで、企業は従業員エンゲージメントの向上や企業価値の向上、優秀な人材の獲得、そして投資家からの信頼獲得といった多面的なメリットを享受できます。

これらのメリットは単独で発生するものではなく、人材への投資が好循環を生み出すことで相乗的に効果を発揮します。

  • 従業員エンゲージメントの向上
  • 企業価値・競争力の向上
  • 優秀な人材の獲得・定着
  • 投資家からの信頼獲得

従業員エンゲージメントの向上

人的資本経営の推進は、従業員エンゲージメントの向上に直結します。

人材を資本として捉え、教育研修やキャリア開発、健康経営に積極的に投資する企業では、従業員が「自分の成長を会社が支援してくれている」と実感しやすくなります。この実感が仕事への主体性や組織への帰属意識を高め、結果として生産性や創造性の向上につながります。エンゲージメントが高い組織では、チーム間の協力体制が強化され、業務品質の安定や顧客満足度の改善といった成果も期待できます。

なお、ギャラップ社の「世界の職場の現状:2026年版レポート」によると、日本の従業員エンゲージメントはわずか8%にとどまり、世界平均の20%を大きく下回っています。この現状は裏を返せば、人的資本経営を通じてエンゲージメントを改善する余地が極めて大きいことを示しています。

従業員エンゲージメントの向上は、離職率の低下やイノベーションの促進など、企業の持続的成長を支える多くの好影響をもたらします。

出典:ギャラップ社「State of the Global Workplace: Japan Country-Level Data」

企業価値・競争力の向上

人的資本経営の推進は、中長期的な企業価値と競争力の向上に寄与します。

人材のスキルや知識は、特許やブランドと同様に企業の無形資産を構成する要素です。近年、企業価値に占める無形資産の割合は年々拡大しており、有形資産だけでは説明できない企業の競争優位性の源泉として、人的資本の重要性が高まっています。人材への戦略的な投資は、新製品・サービスの開発力や市場適応力を強化し、競合他社との差別化を可能にします。

さらに、人的資本経営に積極的な企業は、経営戦略と人材戦略の連動によって意思決定のスピードと精度が向上し、変化の激しい事業環境への対応力が高まります。

人材への投資を「コスト」ではなく「成長の原動力」と位置づける企業こそが、持続的な企業価値の向上を実現できます。

優秀な人材の獲得・定着

人的資本経営に取り組む企業は、優秀な人材の獲得と定着において優位に立てます。

求職者が企業を選ぶ際の判断基準は、給与水準だけでなく、成長機会の提供や働きやすい環境、企業の社会的姿勢へと多様化しています。人的資本経営を推進し、従業員の成長支援や多様な働き方の整備に注力する企業は、採用市場において「人材を大切にする企業」としてのブランドが確立されます。この採用ブランディング効果は、優秀な人材の応募増加と選考通過率の向上に直結します。

加えて、入社後も継続的なキャリア開発やエンゲージメント施策が機能することで、従業員の離職率が低下し、採用・育成コストの削減にもつながります。

人材の獲得競争が激化する時代において、人的資本経営への取り組みは最も効果的な採用戦略の一つです。

投資家からの信頼獲得

人的資本情報の積極的な開示は、投資家やステークホルダーからの信頼獲得につながります。

ESG投資の拡大に伴い、投資家は財務情報だけでなく、人材育成方針やダイバーシティの推進状況、従業員エンゲージメントの水準といった非財務情報にも注目しています。人的資本に関する取り組みと成果を具体的なデータとともに開示する企業は、中長期的な成長可能性が高いと評価されやすく、資金調達コストの低減や株価の安定にも寄与します。

一方で、人的資本情報の開示が不十分な企業は、投資家から「経営の透明性が低い」「人材リスクへの対応が不明」と判断される可能性があります。

投資家との建設的な対話を通じて企業価値を高めるためにも、人的資本経営の取り組みを「見える化」し、ストーリーとして一貫性のある開示を行うことが重要です。


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人的資本経営の実践における課題

人的資本経営を推進する際には、短期的な成果の見えにくさや経営戦略と人材戦略の乖離、組織文化の変革の困難さといった構造的な課題に多くの企業が直面します。

これらの課題は人的資本経営の本質的な性質に起因するものであり、事前に認識したうえで対処の方向性を定めることが、実効性のある取り組みにつながります。

短期的な成果が見えにくい

人的資本への投資は中長期的な取り組みであり、短期的なROI(投資対効果)の測定が困難であるという課題があります。

設備投資や広告投資と異なり、人材育成やエンゲージメント向上の効果は、数か月から数年の時間軸で徐々に顕在化します。研修プログラムを実施しても、その成果が業績に反映されるまでには、学んだスキルの実務適用、組織への波及、そして事業成果への貢献という複数の段階を経る必要があるためです。

この時間軸の長さが、経営層の投資判断を鈍らせたり、予算削減の対象になりやすい構造を生んでいます。対処の方向性としては、エンゲージメントスコアやスキル習得率、社内公募の応募数など、成果に至るプロセスを測定する中間KPIを設定し、投資の進捗を可視化する仕組みの構築が有効です。

短期的な数値に一喜一憂するのではなく、中長期的な視点で投資効果を評価する経営判断の枠組みを整えることが重要です。

経営戦略と人材戦略の乖離

経営戦略と人材戦略が連動しておらず、形式的な取り組みに終わってしまうことは、人的資本経営における最も根深い課題の一つです。

多くの企業では、経営企画部門が中期経営計画を策定し、人事部門がそれとは別に採用計画や研修計画を立てるという縦割り構造が残っています。経営戦略が「新規事業の創出」を掲げていても、人事施策が従来型の管理業務に偏っている場合、戦略の実現に必要な人材が育たないという事態が生じます。

この乖離を解消するには、経営戦略の策定段階から人事部門が参画し、「戦略を実現するためにどのような人材が必要か」を経営層と共に議論するプロセスが不可欠です。CHROの設置や、経営会議への人事責任者の常時参加といった体制整備も有効な手段です。

人材戦略が経営戦略の「下請け」ではなく「共同設計者」として機能する組織こそが、人的資本経営を実質的に推進できます。

組織文化の変革の困難さ

従来の人事管理から人的資本経営への転換には、組織文化そのものの変革が求められますが、これは最も時間と労力を要するプロセスです。

長年にわたって定着した年功序列型の評価制度や、「人材はコスト」という暗黙の前提は、制度を変更するだけでは払拭できません。新しい評価制度や育成プログラムを導入しても、現場のマネージャーが従来の価値観で運用すれば、制度の意図は形骸化します。組織文化の変革には、経営層が率先して新しい価値観を体現し、繰り返しメッセージを発信することが求められます。

加えて、変革に対する現場の抵抗感を軽減するためには、小さな成功事例を積み重ね、変革の効果を実感できる機会を意図的に設けることが有効です。

組織文化の変革は一朝一夕には実現しませんが、経営層の強い意志と継続的な働きかけによって、着実に前進させることが可能です。

人的資本経営で企業が開示すべき情報

人的資本の情報開示は、有価証券報告書での義務化項目と、内閣官房が策定した「人的資本可視化指針」による推奨開示事項、そして2026年の制度改正による拡充という3つの枠組みで構成されています。

企業が開示すべき情報の全体像を正しく理解することは、制度対応にとどまらず、自社の人的資本経営の進捗を可視化し、ステークホルダーとの対話を深めるための基盤です。

有価証券報告書の開示義務

2023年3月期決算から、有価証券報告書を提出する約4,000社に対して、人的資本に関する情報開示が義務化されました。

必須記載事項は、「人材育成方針」と「社内環境整備方針」の2つの方針に加え、定量的な指標として「女性管理職比率」「男性育児休業取得率」「男女間賃金格差」の3指標が定められています。これらは、企業の人材に対する取り組み姿勢を投資家が判断するための最低限の情報として位置づけられています。

開示にあたっては、単に数値を羅列するのではなく、自社の経営戦略との関連性や、改善に向けた具体的な取り組み内容をあわせて記載することが求められます。形式的な開示ではなく、企業の人材戦略の「ストーリー」として一貫性のある内容にすることが、投資家からの評価向上につながります。

出典:金融庁「企業内容等の開示に関する内閣府令等の改正」

7分野19項目の開示事項

内閣官房が2022年8月に策定した「人的資本可視化指針」では、企業が開示を検討すべき7分野19項目の推奨開示事項が示されています。その7つの分野は以下のとおりです。

分野主な開示項目例
人材育成研修時間、研修費用、スキル向上プログラムの実施状況
エンゲージメント従業員エンゲージメントスコア
流動性離職率、採用コスト、内部異動率
ダイバーシティ女性管理職比率、障がい者雇用率、年齢構成
健康・安全労働災害発生率、健康診断受診率
労働慣行労働時間、有給休暇取得率、育児休業取得率
コンプライアンスハラスメント相談件数、内部通報件数

これらは法的な義務ではなく推奨事項ですが、投資家や求職者が企業を評価する際の重要な判断材料です。自社の経営戦略に照らして優先度の高い項目から開示を進め、段階的に充実させていくアプローチが効果的です。

出典:内閣官房「『人的資本可視化指針』の改訂について」

2026年改正による開示拡充

2026年2月の内閣府令改正により、有価証券報告書における人的資本の開示項目が大幅に拡充されました。2026年3月期から適用される新たな義務化項目は以下の3つです。

  1. 連結ベースの企業戦略と関連付けた人材戦略
  2. 従業員の給与等の額および内容の決定に関する方針(給与決定方針)
  3. 提出会社の従業員の平均給与の対前年比増減率

この改正の意義は、人的資本の開示が「定量データの報告」から「経営戦略と連動した説明」へと進化した点にあります。企業は、自社の経営方針と人材戦略がどのように紐づいているのか、そしてその結果として給与水準がどう変化しているのかを、ストーリーとして示すことが求められます。

さらに、2026年3月には内閣官房から「人的資本可視化指針(改訂版)」が公表され、経営戦略と連動した開示の具体的な方法論が示されました。あるべき組織・人材の姿を明確化し、必要な人的資本投資を整理したうえで開示に反映するという、戦略起点のアプローチが推奨されています。

2026年の制度改正は、人的資本経営の「実質」を問う新たな段階の幕開けといえます。

出典:金融庁「企業内容等の開示に関する内閣府令等の改正」
出典:内閣官房「『人的資本可視化指針』の改訂について」

人的資本経営を実践するためのステップ

人的資本経営を自社で実践するためには、経営戦略との連動から始まり、現状分析やKPI設定、そして継続的な改善へと至る体系的なステップを踏むことが重要です。

一度きりの施策ではなく、PDCAサイクルを回しながら継続的に取り組むことで、人的資本経営は組織に定着していきます。

経営戦略と人材戦略を連動させる

人的資本経営の実践における最初のステップは、経営戦略と人材戦略を一体的に設計することです。

まず、自社の経営ビジョンや中期経営計画を確認し、その実現に必要な人材像を具体的に定義します。「どのような事業を、どのような規模で展開するのか」という経営の方向性から逆算して、「どのようなスキルや経験を持つ人材が、どの部門にどれだけ必要か」を明らかにするプロセスです。

この段階で重要なのは、人事部門だけで検討を完結させないことです。経営層や事業部門のリーダーと共に議論し、経営戦略の優先事項と人材戦略の整合性を確保します。目指すべき姿(To be)を組織全体で共有することが、後続のステップの基盤です。

経営戦略と人材戦略が連動していない取り組みは、どれほど精緻な施策を講じても成果に結びつきにくいため、このステップを最も丁寧に進めることが求められます。

現状分析とギャップの把握

2つ目のステップは、目指すべき姿(To be)と現状(As is)のギャップを定量的に把握することです。

経営戦略が求める人材要件と、現在の組織が保有するスキルや人員構成を比較し、どの領域にどの程度の不足があるかを可視化します。具体的には、スキルマップの作成や人材データベースの分析、エンゲージメントサーベイの実施、部門別の人員構成と将来計画の突合などが有効な手法です。

ギャップの把握においては、定量データだけでなく、現場マネージャーへのヒアリングや従業員アンケートなどの定性情報も組み合わせることで、数字だけでは見えない課題を捉えることができます。

現状を正確に把握し、課題の優先順位を明確にすることが、次のKPI設定と施策立案の精度を左右します。

KPIの設定と施策の考案

3つ目のステップは、ギャップを埋めるためのKPIを設定し、具体的な人事施策を考案することです。

KPIは、最終的な成果指標(アウトカムKPI)と、そこに至るプロセスを測定する中間指標(プロセスKPI)の両方を設定することが効果的です。たとえば、「3年以内にDX人材を100名育成する」というアウトカムKPIに対して、「年間研修受講率80%以上」「社内公募への応募件数前年比150%」といったプロセスKPIを設定します。

施策の考案にあたっては、人材育成プログラムの設計や配置転換の実施、採用チャネルの拡充、評価制度の見直しなど、複数のアプローチを組み合わせることが重要です。単一の施策に依存するのではなく、ギャップの性質に応じた複合的な打ち手を講じることで、実効性が高まります。

KPIは設定して終わりではなく、定期的に進捗を確認し、施策の効果を検証するための基準として機能させることが不可欠です。

モニタリング・改善

4つ目のステップは、施策の効果を定期的にモニタリングし、PDCAサイクルを回して継続的に改善することです。

設定したKPIに対する進捗を四半期ごとや半期ごとに確認し、目標との乖離が生じている場合は原因を分析して施策を修正します。モニタリングの結果は、経営会議や取締役会に定期的に報告し、経営層の意思決定に反映させることが重要です。

また、外部環境の変化や経営戦略の見直しに応じて、KPIや施策そのものを柔軟に更新する姿勢も求められます。人的資本経営は「完成」のない継続的な取り組みであり、改善のサイクルを止めないことが成功の鍵です。

モニタリングと改善を組織の仕組みとして定着させることで、人的資本経営は一過性の施策ではなく、企業文化として根づいていきます。

人的資本経営を実践するためのポイント

人的資本経営を形式的な取り組みに終わらせず、実効性のあるものにするためには、開示の目的化を避け、経営層のコミットメントと戦略との紐づけを徹底することが重要です。

実践ステップを理解していても、以下のポイントを押さえなければ、取り組みが形骸化するリスクがあります。

開示を目的化しない

人的資本の情報開示は、あくまで経営改善のための手段であり、目的ではないという認識を持つことが不可欠です。

制度対応としての開示に追われるあまり、「開示すること自体」がゴールになってしまうケースが少なくありません。開示項目の数値を良く見せることに注力し、実態の改善が伴わなければ、投資家や従業員からの信頼を損なう結果を招きます。

開示は、自社の人的資本経営の現在地を客観的に把握し、課題を特定するための「健康診断」として活用すべきです。開示データをもとに改善施策を立案し、翌年の開示で進捗を示すというサイクルを構築することで、開示が経営改善の起点として機能します。

数値の見栄えではなく、取り組みの実質と改善のプロセスを誠実に伝えることが、ステークホルダーからの持続的な信頼獲得につながります。

経営層のコミットメントと全社的な理解

人的資本経営の推進には、CEOやCHROを含む経営層の強いコミットメントと、全社的な理解・浸透が不可欠です。

人的資本経営は人事部門だけの取り組みではなく、経営の根幹に関わる変革です。経営層が自ら「人材は最も重要な資本である」というメッセージを繰り返し発信し、自らの行動で示すことが、組織全体の意識変革の起点です。経営会議で人的資本に関する議題を定期的に取り上げ、投資判断や事業計画と同列で議論する体制を整えることが求められます。

同時に、現場の管理職や一般従業員に対しても、人的資本経営の意義と自身の役割を理解してもらうための研修や対話の場を設けることが重要です。トップダウンの方針だけでは組織は動かず、ボトムアップの共感と行動が伴って初めて、実効性のある取り組みが実現します。

経営層と現場の双方が同じ方向を向くことが、人的資本経営を成功に導く最大の要因です。

戦略との紐づけを徹底する

人材戦略が経営戦略と乖離しないよう、常に紐づけを意識し、ストーリーとして一貫性を持たせることが、人的資本経営の実効性を左右します。

経営戦略が変化すれば、必要な人材像やスキル要件も変わります。中期経営計画の見直しや事業ポートフォリオの転換があった場合は、人材戦略も連動して更新する仕組みが必要です。戦略と施策の紐づけが曖昧なまま施策を実行しても、投資対効果が不明確になり、経営層の支持を得にくくなります。

具体的には、経営戦略の各重点テーマに対して「必要な人材要件」「現状とのギャップ」「具体的な施策」「測定するKPI」を一覧化し、ストーリーとして説明できる状態を維持することが有効です。この一覧は、社内の経営会議での報告だけでなく、有価証券報告書や統合報告書での開示にもそのまま活用できます。

戦略と人材の紐づけを「一度きりの作業」ではなく「継続的なプロセス」として運用することが、人的資本経営の持続的な推進を支えます。

人的資本経営の成功事例

人的資本経営に先進的に取り組む企業の事例は、自社での実践に向けた具体的なヒントを提供します。経済産業省が公表した「人材版伊藤レポート2.0 実践事例集」から、3社の取り組みのポイントと成果を紹介します。

旭化成は、経営戦略の実現に必要な人材の質と量を、事業軸・機能軸の両面から毎年全社的に洗い出し、採用・育成を計画的に実施しています。独自のエンゲージメント調査「KSA(活力と成長アセスメント)」を全社で実施し、調査結果をもとにマネージャーが部署ごとの課題を把握して職場改善につなげる仕組みを構築しました。さらに、DX人材をレベル1〜5で定義し、育成KPIを設定して進捗をモニタリングするなど、経営戦略と人材戦略の連動を具体的な仕組みとして実装しています。

ソニーグループは、多様な事業を展開するグループ経営の特性を活かし、人事責任を各社のCHROに委任することで、事業特性に応じた迅速な人事運営を実現しています。グループ共通のパーパス(存在意義)を「求心力」として定義しつつ、各社の自律性を尊重する設計が特徴です。エンゲージメント向上の責任を経営陣の報酬に反映させることで、人的資本経営を経営の最重要課題として位置づけています。

丸井グループは、イノベーション創出に向けた「手挙げの文化」の醸成に10年以上にわたって取り組んでいます。企業理念に関する対話や公認プロジェクト、研修参加などを社員の自主性に基づく手挙げ方式に変更し、自律的な組織づくりを推進しました。トップダウンではなく、従業員の主体性を引き出す仕組みを長期にわたって定着させた点が、他社にとっても参考になる事例です。

これらの事例に共通するのは、経営戦略と人材戦略の連動を仕組みとして構築し、継続的に改善している点です。自社の規模や業種に応じて、取り入れられる要素を見極めることが実践の第一歩です。

出典:経済産業省「人材版伊藤レポート2.0 実践事例集」

人的資本経営に関してよくある質問

人的資本経営と人的資源管理の違いは?

人的資本経営は人材を「投資対象の資本」として捉え、教育やキャリア開発への投資を通じて価値の最大化を図る経営手法です。一方で、人的資源管理(HRM)は人材を「消費される資源」として効率的に管理する手法を指します。最大の違いは、人材への支出を「コスト」と見るか「投資」と見るかという根本的な視点の差にあります。

人的資本経営は中小企業でも取り組める?

人的資本経営は企業規模を問わず取り組めます。中小企業は有価証券報告書の開示義務はありませんが、自社サイトや採用ページで人材育成方針や働き方の取り組みを自発的に発信することで、採用力の強化や従業員エンゲージメントの向上といったメリットを享受できます。まずは経営戦略と人材戦略の紐づけから始めるのが効果的です。

人的資本の情報開示は2026年にどう変わった?

2026年2月の内閣府令改正により、2026年3月期から3つの項目が新たに義務化されました。連結ベースの企業戦略と関連付けた人材戦略、従業員の給与決定方針、そして平均給与の対前年比増減率の開示が求められます。また、2026年3月には内閣官房から「人的資本可視化指針(改訂版)」が公表され、経営戦略と連動した開示がより一層重視される方向へと制度が進化しています。

人的資本経営は企業の持続的成長を実現する経営手法

人的資本経営とは、人材を「資本」として捉え、その価値を最大限に引き出すことで中長期的な企業価値向上を目指す経営のあり方です。

本記事では、人的資本経営の定義から、注目される4つの背景、人材版伊藤レポートが示す3P・5Fのフレームワーク、取り組みによるメリットと課題、2026年最新の情報開示ルール、そして実践のステップとポイントまでを体系的に解説しました。

人的資本経営は、単なるトレンドや制度対応ではなく、企業の持続的成長を支える経営の根幹です。ESG投資の拡大や情報開示の制度化が進む中、人材への投資を「コスト」ではなく「成長の原動力」と位置づける企業こそが、変化の激しい時代において競争優位を確立できます。

まずは自社の経営戦略と人材戦略の連動状況を点検し、できるところから一歩ずつ取り組みを始めてみてはいかがでしょうか。